『トーキングブルース』が研ぎ澄まされた「語り」ならば、
『俺にもしゃべらせろ』は文字通りの「喋り」。
7年に亘り、伝説の小劇場で行われたフリートークライブ。
「今だからこそ伝えたいことがある」
「古舘節」が国内を飛び回る!自身初となる全国ツアーの開催!
今年は喋り手として新たな試みに挑む年!
第一弾は無観客ライブへの再挑戦
苦渋の「無観客」を経て、12月、いよいよ待望の「有観客」開催決定!
楽器を持たぬトーカー(喋り屋)が、トークでブルースを奏でる
2014年以来、6年ぶりの開催となる『トーキングブルース』は、配信限定の無観客ライブ。楽器を持たぬ"トーカー"が、トークでブルースを奏でる。
昭和63年、豊かさの中で生きる座標軸を失った人間に問う、記念すべき第1回のトーキングブルース。答えは歴史の中にあった。古舘が大胆な歴史観を織り込み、2000年の日本史を3万3000語で一気に語る2時間。日本人は本当に進化したのか? 語り尽くしたあとに、いったい何が見えてくるのか?
繁栄と激動という名の昭和は、裏返せば、超スピードでストレスを蓄積した時代でもあった。消費税、金権政治、環境汚染…、そのストレスを平成にまで持ち越した昭和。2000年の日本史の中でもっとも際立った時代=昭和とはいったい何だったのか? VTRのピクチャーサーチの如く眺め、昭和の喜びと悲しみをストロボさせる。
男と女の葛藤、日米経済摩擦、バブル経済、壁崩壊、果ては環境破壊…、人々の生きざまが縦横に交錯する時代の喧騒にあえて牙をむき、古舘が鋭く現代をえぐる「3年目の本音(シャウト)」。ラップ音楽、浪曲、落語、実況スタイルと趣向をこらしたオムニバス・トークパフォーマンス。
ラジオ深夜放送の全盛期。ある一つの番組が終わりを告げた。そして、愛する人との別れがあった。赤裸々な人間模様が交差するラジオブースでDJのオンとオフがスパークする。悲しみから目をそらさず、それを語りによって昇華させるトーキングブルースの原点。半年前にがんで急逝した実姉への想いを切々と、淡々と織り込んだ、古舘伊知郎の記念碑的パフォーマンス。
1992年…、かつて体験したことのないメディア革命前夜。テレビの世界で生きてきた古舘伊知郎は、あえてテレビに真っ向から勝負を挑む。世紀末の不安に駆られ、心細く現在を生きようとする人間の哀しみ、切なさを紡ぎだすために。「電波芸者」を自称する古舘が、テレビ業界の光と影を近親憎悪にも似た気持ちで語り尽くす。
もっとも人間臭い犯罪、それは「詐欺」。喋りの天才詐欺師・古舘伊知郎が、聴衆を次から次へと騙していく。めくるめく騙しのテクニックの中に、人間としての「詐欺師」の喜びや哀しみの性(さが)が見えてくる。それは同時に、自分自身の姿を映し出したものでもあった。
結婚披露宴でのスピーチ、テレビ局への抗議電話、お客さんへのセールストーク…。何かの機会を得たとき、そこで話すべき目的を超え自己主張してしまう人たちの、可笑しくも哀しい一夜の出来事。見えない時代の「いかがなものか?」の声に古舘が応えた「史上空前のスピーチショー」。
かつて同じ小学校、同じクラスで学んだ5人の男たち。30年という時を経て、彼らはそれぞれまったく異なる「今」を歩んでいた。古舘が5人の男たちに扮し、五者五様の「人間のさもしさ」を描きだす。懐かしくて、可笑しくて、切ない…、トーキングブルースの真骨頂。
ニューヨークの舞台に憧れる、売れない芸人。政治家パーティーの司会から温泉ホテルでの営業、刑務所の慰問まで、何でもこなすその男は、妻子にも去られ、寂しさに耐えかねていた。それでも男が追いつづける「見果てぬ夢」の行く先とは? 「話し言葉」に命を懸けた芸人の誇りと孤独が交差する。
1988年の初演以来、様々な役柄を演じてきたその衣をかなぐり捨て、生身の古舘伊知郎が「ぶざま」な裸の自分と対峙する究極のステージ。観客にとっては待望の、これ以上ない趣向ながら、古舘にとっては自ら逃げ場をふさぎ、自分自身を追い詰めていく自虐的なまでの真剣勝負となる。トーキングブルース10年目の集大成。
テーマは「シェイクスピア」。演劇史上最高の劇作家が生み出した名作の数々、その至高の作品群に古舘はどう戦いを挑もうというのか? キーワードは「饒舌」。シェイクスピア作品に接する者がまず圧倒される言葉の洪水。単なる物量ではなく、演劇上のレトリックに見えて、その実、それぞれの作品世界を超えてしまうほどの豊饒なる意味の奔流。20世紀末、400年の時を隔て、二人の饒舌王が激突する。
「この世紀末に、地球のどこかで時代実況をしてみたい」そんな古舘の熱い思いが、現地時間12月31日大晦日から元日にかけてのカウントダウンライブ「トーキングブルースinニューヨーク」として実現。舞台はエディ・マーフィら数々のスターを輩出した、スタンダップコメディの聖地「ザ・コミック・ストリップ・ライブ」。はたして、言葉は国境を越えるのか?
古くて新しい、卑近すぎて縁遠い、野暮ったくて、でもどこか魅力的な仏教の世界と向き合った古舘に見えてきたものはいったい何なのか? 祈り? 救い? 悟り? あるいは欲望? 仏教の開祖・釈迦から(西暦でいうなら)世紀末日本まで、人類のどうしようもない2500年を 言葉の刃でぶった斬る。スペシャル公演は大晦日、京都随一の名刹で2000年へのカウントダウンライブ。
マイク1本による無設定、ノーセットでのフリートークスタイルのトーキングブルース。選び抜かれた言葉を紡ぐ唯一無二の空間は覚醒作用をもたらす。1998年にニューヨークで、99年には京都で開催したカウントダウンライブを、20世紀最後の大晦日、日本橋三越本店のショーウィンドウで開催。古舘が道往く人々に熱く語りかける「通りすがりのライブ」が実現した。
その急速な発達に、もはや哲学も心理学も不要とまでいわれる脳科学の世界に、過激な言語中枢ともいうべき古舘がコンタクトする。そこに生まれるのは、時代を斬る思いも寄らぬ視点と奇想天外なトークの世界。時代を、世の中を、またもまったく新しい切り口で読み解きつつ、自分とは何か、人間とは何か、脳を脳が考えるとは何か、古舘的迷宮世界へと観客を引きずり込んでいく。
テーマはズバリ「言葉」。人を喜ばせ、笑わせ、励まし、泣かせ、罵り、陥れ、人を人たらしめる言葉。聖書は「始めに言葉ありき」といい、古舘は「言葉を持った時、人間に悲しみが生まれた」という。言葉には表があり裏がある。伝えたい何かを言葉にした瞬間、言葉にはできない何かが生まれる。言葉に生き、おそらくは言葉に死にたいと願う男の15年間の集大成。
あの古舘伊知郎が恋愛論を!? いや、決してそうではない。そこに「恋愛」はあるが「論」はない。テーマは「体験」だからである。際限ないメディアの発達で、何もかもわかっているつもりの現代人。そう、TVで見たから、そう、本で読んだから…。でも、本当にわかっているのか? これは頭でっかちになった世の中に、そして自分自身に、知ること、わかることの本質を問う究極の体験記である。